741.「あたりまえ」より、「ありがとう」。【僕は発達凸凹でも、前向きに生きていく。第66回】
2024/04/23
※この記事での私の特徴は自閉スペクトラム症(ASD)や発達性協調運動症(DCD)当事者の特徴のうちの、ほんの一例です。全ての神経発達症(発達障害)当事者に当てはまるわけではなく、特徴は十人十色だということをご理解いただけると幸いです。また、このシリーズにおける凸凹とは、凸が得意なことや強み、凹が苦手なことや困難を感じること、という意味合いで用いています。
本記事の著者による講演動画
こちらの講演会の資料など詳細は、こちらの記事をご覧ください。
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私は、多くの人々が「あたりまえ」にできることができないことがあります。
例えば、以前こちらの記事で述べた車の運転です。私からしたら、ほとんどの人々が「あたりまえ」に車を運転できていることに驚きです。
私の場合、他に車と人がいない場所で車を運転するのは全く問題がないのですが、他人に合わせることが極端に苦手(凹)な私は運転中に他の人や車の不規則な行動に合わせなければならない点に著しく困難を感じますので、免許は取得したもののペーパードライバーです。
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このように、私は多くの人々が「あたりまえ」にできることができない場合があるのです。
私自身が車を運転できないので、私自身は公共交通機関、もしくは家族や知人などの運転に頼ることになります。
その際に私は、「私ができないことを代わりにしてくださっている。ありがとうございます。」という気持ちが芽生えます。
「車の運転」という行為は、ある人にとっては「あたりまえ」のことかもしれませんが、私にとっては「ありがとう」なのです。
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よく言われている話ですが、「ありがとう」を漢字で書くと「有難う」になります。有ることが難しいと書きますね。言葉通りの意味では、ほとんどないこと、貴重で尊いこと、などを想像できる意味合いです。
私は能力の得手不得手(凸凹)が極端で、できないことがたくさんあります。
だからこそ、自分ができないことを誰かがしてくれた際には「ありがとう」と感謝をします。そしてそのことを心に刻み、自分が得意なことがあっても驕り高ぶらず、偉ぶらず、そういった人間でありたいと思っております。
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誰かにとっての「あたりまえ」は、他の人にとっての「ありがとう」かもしれない。
より多くの人々が「あたりまえ」だと軽く考えるより、感謝の気持ちを持ったほうがこの世の中は少しだけやさしいものになるかもしれません。
そんなことを、本日は考えました。
お読みいただき、ありがとうございました。