1519.【エッセイ】『見知らぬ誰か』
2025/07/29
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『見知らぬ誰か』
私たちが外出をすると、殊に人の多い市街地などに出かけると、様々な人々とすれ違う。
たとえ知り合いが多い人でも、すれ違う人々のほとんどは「見知らぬ誰か」であることだろう。
将来的に、その「見知らぬ誰か」と個人的に知り合いになる可能性もあるかもしれないが、そういう人はごく少数である。
大半の「見知らぬ誰か」は、「見知らぬ誰か」のまま自身と個人的な接点を持つことがなく人生を終えることであろう。
私は、そんな「見知らぬ誰か」の幸せをも願う。
せっかくこの世に生まれてきたのだから、不幸より幸福を多く手にして人生を終えたい。これはほとんどの人がそう思っていることであろう。
自身にとっては「見知らぬ誰か」でも、その人は誰かにとっては大切な人かもしれない。
こう考えると、無闇矢鱈に他人を悪く言うことは自重しよう、という気持ちになる。
現代では、外出をせずとも「見知らぬ誰か」をたくさん見かけることができる。
そう。インターネット上の様々な人々である。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の台頭もあり、実に無数の人々をスマートフォンという小さな板を通して観察することができるようになった。
たくさんのユーモアある投稿を拝見することができ、私もそれを見て笑顔になることがある。それを書いたのは「見知らぬ誰か」だが、その「見知らぬ誰か」によって、その人にとっては「見知らぬ誰か」である私が良い影響を受けている。・・・不思議な話である。
リアルな世界でもインターネット上の世界でも、マナー違反をしてしまう「見知らぬ誰か」もいる。
私はそういう人たちの幸せすらをも願う。
迷惑行為をしてしまうのは、不幸だからであろう。
不幸に至るまでは様々なことがあったことであろう。
そういった人々も、再び幸福が訪れることが来ることを願う。
私も、道ですれ違ったり、同じ駅やお店にいただけであったりする「見知らぬ誰か」に、知らず知らずのうちに幸せであることを願われているかもしれない。
そう考えると、私たちは同じ社会・同じ時代に生きていることを実感できる。
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お読みいただき、ありがとうございました。
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